「うーん、この新しい冬物のコート、5万円かぁ。ちょっと高すぎるからやめとこうかな……」 「お客様!実はこちら、【メーカー希望小売価格 10万円】の超高級品なんですが、本日のタイムセールで特別に5万円に値下げしているんです!」 「えっ!10万円のコートが5万円!?半額なの!?それは絶対今すぐ買わなきゃ大損だ!!」

このお客さんは見事に騙されています。

本当の価値が5万円だろうが3万円だろうが関係ありません。なぜなら、人間の脳は「最初に見た高い数字(10万円)」が頭にこびりついてしまい、その数字を基準(アンカー)にして、後のすべての数字を「安い」と錯覚してしまうからです。

この、ビジネスの価格提示で最もよく使われる心理学の魔法、「アンカリング効果」について解説します。

アンカリング効果とは? 一言でいうと

一言でいうと、アンカリング(Anchoring)効果は「テレビショッピングの『通常1万円が今だけ3千円!』のように、最初に極端な条件(高い価格や高い目標)を提示することで、その後の条件(実際の販売価格)を相対的にお得だと錯覚させる、行動経済学の代表的なバイアス(偏見)」のことです。

これを、「船を海に固定する重くて巨大なイカリ(アンカー)」に例えてみましょう。

船から海の底に向けて、巨大で重い「イカリ」をドカン!と落とします(=お客さんに、最初に「通常価格 10万円!」というデカい数字をドカンと見せる)。 すると船(お客さんの思考)は、そのイカリを落とした場所から遠くへ離れることができなくなります。

その後で「今は5万円です」と言われた時、お客さんは「0円から数えて5万円か……高いな」とは考えません。 脳に刺さったイカリ(10万円)から計算して、「イカリから半分も引かれている!安い!」と脳がバグってしまうのです。つまり、企業は「最終的に売りたい価格(5万円)」を安く見せるための壮大なフリ(罠)として、絶対に売る気がない「ぼったくり価格のイカリ(10万円)」を最初に落としているのです。

ビジネスの現場での使い方

実際の現場で「アンカリング」がどう使われているのか、よくある3つの場面を見てみましょう。

「メニューの一番上に『1万円の極上コース』を置いて強烈なアンカーを打て」

  • 裏にある意味・意図
    • 「レストランのメニューで、一番上に『松・極上和牛コース 10,000円(※頼まれなくていい)』をデカデカと載せておけ。そうすれば、お客さんの脳に1万円のイカリが刺さる。その次に『竹・特選コース 6,000円』『梅・標準コース 4,000円』を並べると、お客さんは『1万に比べれば6千円はまあ普通だな』と錯覚し、一番売りたい真ん中の6千円(竹)がバンバン注文されるようになるぞ」
    • 「松竹梅の法則」とアンカリングを組み合わせた、飲食店の王道テクニック。

「値下げ交渉の時は、こちらから最初にアホみたいに高い金額を提示するんだ(アンカリング)」

  • 裏にある意味・意図
    • 「中古車を売りに行く時は、業者から『50万でどうですか?』と言われるのを待ってはいけない。主導権を握るために、最初に自分から『絶対無理だと分かっているけど、150万円だ!』とデカい数字(アンカー)をぶちかませ。そうすれば、その後の業者の値切り交渉のスタートラインが『150万は無理だから80万で…』と、最初のイカリに引っ張られて、結果的に高く売れるんだ」
    • 交渉事において、「最初の数字を言った方が勝ち(イカリを落とした方が基準になる)」という鉄則。

「二重価格は景表法違反になるから、嘘のアンカリングは絶対するなよ」

  • 裏にある意味・意図
    • 「『通常価格10万円が、今日だけ半額5万円!』というアンカリングをやる時、実は過去に一度も『10万円』で売った実績がない(ずっと5万円で売ってた)としたら、それは消費者を騙す『二重価格表示(景品表示法違反)』という重罪になるぞ!イカリとして見せる数字は、過去に本当にその値段で売っていたという証拠が必須だ!」
    • 強力すぎるアンカリング効果を使った「見せかけの安売り競争」を取り締まる、法律の壁の確認。

「フレーミング効果」との違い

アンカリングと似たような「言葉の錯覚」に「フレーミング効果」というものがあります。どちらも脳のバグですが、やり方が違います。

比較ポイントアンカリング効果(高いイカリを落とす)フレーミング効果(言葉の額縁を変える)
錯覚のさせ方「最初に『高い嘘の数字』をぶつけてから、本命の値段を出す」「同じ事実を、『言い方(枠組み)』を変えて凄そうに見せる」
現場での例「通常5千円(アンカー)のところ、今なら1千円!「1ヶ月1千円!」ではなく、「1日たったの30円!(缶コーヒーより安い!)」
お客さんの脳内最初が高すぎたから、「ものすごく安く・お得になったぜ!」なんか計算したら、「めちゃくちゃ負担が軽そうに思えてきたぜ!」

見分け方としては、「『比較対象(昔の値段など)』を使って安く見せるのがアンカリング。『1日あたり』や『生存率90%(=死亡率10%)』のように、事実は同じなのに言い回しを小賢しく変えて心証を良くするのがフレーミング」と覚えましょう。

まとめ

  • アンカリング効果とは、最初に提示された数字や条件(アンカー)が強烈な基準となり、その後の価格判断や意思決定が最初の数字に引っ張られてしまう心理現象のこと。
  • 「メーカー希望価格10万円」という巨大なイカリを最初に脳に落とさせることで、本来は高い「売価5万円」という数字すら「すごく安くてお得だ!」と人間に錯覚させる恐ろしいマジックである。
  • スーパーの「通常価格にバツ印が引いてある特売シール」から、企業間の商談での「最初のふっかけた見積もり」まで、ビジネスのあらゆる交渉(価格決定)は、このアンカリング効果に支配されている。

今日できるミニアクション: 家電量販店に行った時、テレビや冷蔵庫の値札を注意深く見てみてください。「ズバリ 150,000円!」という値札のすぐ上や横に、もっと小さな文字(またはバツ印)で「【参考】オープン価格 200,000円」とか「他店対抗前 180,000円」といった、明らかに高い数字が不自然に配置されていませんか?これは親切心ではなく、あなたの脳に「20万」というイカリ(アンカー)を打ち込むための罠です。これを自覚した上で、「いや待てよ、このテレビの本当の価値はいくらなんだ?」と、イカリを引っこ抜いてゼロからネットの最安値を検索する癖をつけることで、マーケティングの罠から身を守ることができます。